丸の内を買い三菱の財閥の基礎を作った岩崎弥之助
竹でも植えて虎でも飼うさ。
名言の著者 : 岩崎弥之助(三菱財閥二代目総帥)
三菱は岩崎弥太郎が作り、弥之助が財閥にした
日本の三大財閥といえば、三井、住友、そして三菱があります。この3つの中で三井や住友は江戸時代からの商人財閥として長い間金持ちになっていった歴史がありますが、三菱はほんの150年前にいきなり財閥を築き上げました。その創始者は岩崎弥太郎であり、江戸末期の土佐で下級武士として生まれ、吉田東洋、後藤象二郎などに仕え、坂本龍馬率いる海援隊の土佐藩側の窓口もした人物です。
2010年に坂本龍馬を題材にした龍馬伝にて坂本龍馬を第三者視点から語る語り部役として岩崎弥太郎が登場し、香川照之が熱演したことで注目を浴びました。坂本龍馬、後藤象二郎、トーマス・グラバー、など歴史上の人物と数多く交流した岩崎弥太郎は、三菱の前身である九十九商会を設立し、その後の台湾出兵や西南戦争の軍需需要を独占したことで政商として大いに発展し、日本最大とも言われる財閥を作り上げたことはよく知られています。
三菱を財閥にしたのは岩崎弥太郎ではなかった
しかし実際に三菱を創始し、その事業を開拓したのは弥太郎ですが、財閥を確固たるものにしたのは二代目であり、実弟岩崎弥之助なのです。金持ちも一代目が偉人であっても二代目が浪費すると、三代目には潰してしまうと言われています。財閥の基礎を作り上げるのは二代目が重要です。そしてその二代目が三菱は優れていました。
創始者:岩崎弥太郎は1885年に三菱総帥の座を実弟の岩崎弥之助に譲ります。弟といっても弥太郎と弥之助は16歳も年が離れており、当時の兄弟間の権威などは親子に近い感じです。その弥之助は三菱財閥の発展に大いに尽力し、海運業特化で失敗した弥太郎の轍を踏まずに銀行・倉庫・地所・造船などの事業を興し三菱の多角化に成功します。
後に第4代日本銀行総裁となり、事実上三菱が通貨発行権まで握ってしまうほど日本に深く関わります。しかしその安定には常人には理解しえないほどの賭けともいうべき巨大な投資がありました。
東京の中枢:丸の内を買った岩崎弥之助
その岩崎弥之助ですが明治23年にとんでもない投資を行います。なんと当時の丸の内を当時の価格の数倍以上で土地10万7026坪に対して128万円(坪当たり11円96銭)という桁違いな高値で応札、購入したのです。
当時の明治政府は維新後の様々な出費で財政難に陥っていたため、費用調達のため丸の内の広大な土地を売りに出しました。しかし価格が高すぎるために買い手がつかず、そこで政府とつながりの深い政商:三菱に半ばおし付ける形で売りつけました。
当時の周辺の土地の価格は2,3円という時代で、しかも丸の内は明治の戦争で武家屋敷などが焼けたためにただの焼け野原にすぎなかったのです。そこに坪単価12円という4倍以上の高値で広大な土地を購入したのです。
三菱が潰れるかも知れない投資
いくら三菱が儲けているとはいえ、この金額の投資は失敗すれば三菱を根底から覆すほどの大決定でした。128万円という価格は、東京市の年間予算の3倍に相当する額になります。現在の価格では正確な換算はできませんが、おそらく数百億に乗るかもしれません。
それほどまでの巨額投資は当時の世間だけでなく、三菱の身内からも非難を浴びせられました。しかし当の弥之助は 「竹でも植えて虎でも飼うさ」 と平然と語ったと、三菱地所編纂の「丸の内の100年のあゆみ」(平成5年発行)に書かれています。また兄の「国あっての三菱」 という言葉に習い、「国家あっての三菱です。お国のために引き受けましょう」 とも語っています。
相場の4倍で購入した思惑とは
さて、三菱は一歩間違えれば財閥自体が消えかねないほどの巨額の投資をして丸の内を購入しました。結果、今はどうなっているでしょう。丸の内は日本の首都東京のどまんなかに位置し、日本の鉄道の玄関口東京駅が構えます。周りには超高層ビルが立ち並び、大手企業が本社を構え、上場企業の10%はここにあり、日本の国力の象徴ともなっています。
日本の政治中枢である霞が関や皇居なども目と鼻の先にあります。土地の価格はすさまじく上昇し、東京・千代田区丸の内2丁目、いわゆる銀座のあたりでは地価が1坪あたり2700万円となっています。三菱はこの丸の内に本拠地を構えているため、日本の中枢地域を握っている三菱は、日本国家がなくならない限り三菱もまた無くならないといえるほどの財閥地位を手に入れています。
誰がどうみても投資は大成功となりました。ちなみに三菱グループが丸の内の不動産賃貸収入で得ている金額は年間数千億円と言われています。不動産だけで並の財閥を超えてしまいます。
参考リンク:三菱グループポータルサイト岩崎彌之助物語 Vol.9 「丸の内取得の決断」
日本の未来の中枢になることを知っていた岩崎弥之助
この丸の内を購入するという投資は大成功をおさめ、三菱は日本の中枢を握ることになりました。しかし実際、岩崎弥之助は賭けでこの投資を決断したわけでも。押し付けられて渋々決断したわけでもありません。
岩崎家は創始者の岩崎弥太郎が政商と言われ、同じ土佐藩出身で上司部下の関係である後藤象二郎とともに現在で言うインサイダー取引などをやっていたように、三菱は国の裏にも深く関わっていました。
当然、当時の総帥である弥之助も政界と通じており、ここ丸の内が新東京の中枢になるという情報を掴んでいた可能性が高いと言われています。事実、この丸の内購入と同じ年の明治23年には日本の中枢駅になる東京駅建設計画が発表されています。
これを知らなかったはずはありません。
また当時の明治という時代は財閥が完全に政府と癒着していたため、別の財閥である三井や弥太郎と対立していた渋沢栄一の渋沢財閥などもこれを知っていました。しかしライバル財閥が購入する資金を工面できないことを知った弥之助は金額を負けさせる交渉まで行っていました。最初の売り出し価格は150万円だったので、そこから128万円まで下げられたのです。
政商の情報があったとはいえ、決断をしたのは弥之助
そういった情報もありますが、弥之助の経営眼も要因の1つです。
当時の三菱の筆頭管事である荘田平五郎がロンドンの街を見て、「我国においてもまた速やかに西洋式のオフィス・スツリートを建設することが必要であり、且つ急務である」 という報告を受け、そして丁度その時に丸の内が売りだされていたのです。
荘田平五郎はそれを買うべしと打電し、弥之助もそれを受け入れました。彼ら東京を国際化するにはその玄関口である場所が必要であり、またその場所には世界に通用するオフィス街が必要であるという展望も持っていたのです。かくして情報と未来を見極めることにより、三菱は丸の内に巨額の投資を行い、そして今日に至るのです。