甲子園を沸かした斎藤佑樹と田中将大の年俸格差は100倍以上

大注目だった斎藤佑樹と田中将大の2006年甲子園決勝戦

甲子園にはフィクションよりもリアルのほうが面白いと言える数々の名場面があります。2006年に行われた第88回全国高等学校野球選手権大会決勝、南北海道代表の駒大苫小牧高校と西東京代表の早稲田実業学校の試合もその一つです。

2006年8月20日の試合は夏の3連覇という戦前の1931~1933年に中京商業学校以来73年ぶりの偉業に挑戦する田中将大擁する駒澤大学附属苫小牧高等学校と、「ハンカチ王子」としてマスコミを賑わした斎藤佑樹を有するう早稲田実業学校高等部との試合でした。

この試合は両投手の熾烈な投げ合いの末、延長15回で決着がつかずに翌日に再試合が行われるというベストゲームになりました。再試合となった翌日の試合は両投手にさすがに疲れが見え始め前日の試合とは違って得点が入り、先制した早稲田実業がなんと最後に相手ライバル投手である田中将大を斎藤佑樹が打ちとったことで決着、甲子園優勝を果たしました。

斉藤と田中:ファンの心に残るベストゲームの1つ

同年代を代表する二人の大エースが、甲子園決勝という最高の舞台での熾烈な投げ合いと再試合まで至る拮抗したゲーム内容、ハンカチ王子のブームも相まって甲子園史に残るベストゲームとして野球ファンの心に残った試合となりました。

勝利した斎藤佑樹の成績は、この大会で投球回69、投球数948はどちらも一大会における記録としては史上1位。一大会における奪三振78は、1958年の板東英二(徳島商業高校)の83個に次いで歴代2位となるなど、記録にも残る投手となりました。

別れた進路:田中はプロへ、斉藤は大学へ進学

しかしこの二人は何が運命を分けたのかその後の成功に大きな格差を生むことになりました

勝った斎藤佑樹は大学時代こそ順風満帆になるもののプロに入ってからパッとせず、逆に田中将大は弱小球団:楽天に入りながらも数々のプロ野球記録を作り上げ、ついにはメジャーリーグ最高峰の球団ヤンキースに入団、巨額の稼ぎを得ることになります。

年俸総額の差はなんと50倍以上!単年度の2014年、2015年で見てみれば100倍以上にも登ります。斎藤佑樹もプロに入ってから年俸2000~3000万円と普通の人と比べれば相当稼いでいますが、田中将大の稼ぎと比較したら話になりません。そして7年契約で単年で20億円以上もらう田中に対して、斎藤佑樹は活躍できずに年々年俸が下がってしまっています。斉藤の年俸がこれ以上下がれば、その差は100倍どころか200倍300倍になっても不思議ではありません。

二人の年俸格差
斎藤佑樹
田中将大
年度年俸S防御率年度年俸S防御率
2007     20071,50011703.82
2008     20086,0009713.49
2009     20099,50015612.33
2010     201018,00011602.50
20111,5006602.69201120,00019501.27
20123,0005803.98201232,00010401.87
20133,5000103.50201340,00024011.27
20142,8002104.852014220,00013502.77
20152,5001305.742015220,00012703.51
2016
2,3000104.562016
220,00014403.07
2017
2,0001306.252017
220,000131204.74

斎藤佑樹は早稲田大学へ、田中将大は楽天へ入団

別れた二人の進路

2006年の決勝戦の後、斎藤佑樹と田中将大の二人は高校3年ということもあってその後の進路が注目されました。

しかしその進路は対象的であり、田中将大はプロを志望したのに対して斎藤佑樹は大学進学を決断しました。田中将大は2006年9月25日の高校生ドラフト会議において、北海道日本ハムファイターズ、オリックス・バファローズ、横浜ベイスターズ、東北楽天ゴールデンイーグルスから1巡目指名を受け、抽選の結果楽天が交渉権を獲得し、東北楽天ゴールデンイーグルス入りします。

斎藤佑樹は 「自分は人間としても野球選手としても未熟。大学に進んで成長したい、日米親善高校野球大会でアメリカ遠征している間に気持ちが揺れた」 とも語りプロに多少未練を残しつつも大学進学を決意、早稲田大学への進学をしました。

大学時代の斎藤佑樹の活躍

2007年、大学時代の斎藤佑樹は2007年東京六大学野球春季リーグ戦において、1927年の宮武三郎(慶應義塾大学)以来80年振りに1年生での勝利投手になり、チームの10勝中6勝に関与し優勝に大きく貢献した。また1年生投手としては史上初となるベストナインにも選出されるなど大学野球の顔となっていきました。

2008年、2年生では第4回世界大学野球選手権日本代表に選出もされ、自身最高の7勝(リーグ最多勝)を挙げ2季ぶりの優勝に貢献、3回目のベストナインにも初の満票で受賞するなど順風満帆でした。

2009年、3年目となると第37回日米大学野球選手権大会日本代表に選出されたものの、球速を早めようとフォーム改造の結果、フォームを崩したことも影響してリーグ戦は春4勝2敗、秋3勝2敗、チームも優勝を逃すなどスランプに陥りました。

2010年、4年目では第5回世界大学野球選手権日本代表に選出もされ、秋季リーグ戦の50年ぶりの早慶優勝決定戦において明治神宮野球場の超満員の36,000人の観衆の中で先発し8回途中までノーヒットノーランの好投をし、試合も10-5で早稲田大学が優勝。主将として大学最後の年にリーグ戦優勝、大学日本一、早稲田大学初優勝というこれ以上ない有終の美を飾ることとなりました。

大学時代の斉藤は記録づくめの活躍

試合後のインタビューでは 「いろんな人から斎藤は何か持ってると言われ続けてきました。今日、何を持っているのか確信しました。それは、仲間です」と語り、この言葉は新語・流行語大賞の選考委員特別賞を受賞します。

大学4年間を通じて、東京六大学野球史上6人目となる通算30勝300奪三振を達成(31勝323奪三振)。また世界大学野球選手権大会と日米大学野球選手権大会に大学日本代表として4年連続選出されたのは史上初と、記録づくめの大学野球時代となりました。

そして4球団1位指名で日本ハムに入団

同年のプロ野球ドラフト会議にて、東京ヤクルトスワローズ、北海道日本ハムファイターズ、千葉ロッテマリーンズ、福岡ソフトバンクホークスの4球団が1位指名し、日本ハムが交渉権を獲得。そのまま日本ハムに入団することになります。

入団会見には8,000人のファンが駆けつけるなど、新人選手の単独入団会見は球団史上初にもかかわらず大きな注目を浴びました。このように斎藤佑樹は大学野球においては記録に残る選手でした。

一方の、プロに入った田中将大

2007年、この時田中将大は出来上がって間もない弱小チーム楽天においてプロ1年目を早くもスタートしていました。

初登板でプロの洗礼を受けて涙をながす試合もあったものの、初完投で初勝利を獲得、1999年の松坂大輔以来となるファン投票で選出されたオールスター第2戦に先発して自己最速の153km/hを記録、高卒新人として松坂大輔以来史上6人目江夏豊と並び最速タイとなる96回2/3でのシーズン100奪三振を記録、松坂大輔以来球団史上初となる高卒新人での2桁勝利を挙げる、リーグ4位の186回1/3を投げて11勝、リーグ2位で高卒新人では歴代4位の196奪三振を記録、松坂大輔以来8年ぶりの高卒1年目で新人王を受賞など、”怪物:松坂大輔” 以来の大物新人として記録と記憶に残る選手となりました。

戦力が薄い楽天に入団したここと、ボヤキで有名な野村克也当時監督がエースと認めることで、入団一年目から球団の顔として活躍していきました。

プロ4年目で年俸1億8000万円プレイヤー

2008年、2年目に入っても、「2年目のジンクス」 などものともせずに勝利、プロ入り初セーブ、北京オリンピック(北京五輪)の野球日本代表に選出もされました。この年は9勝に終わるが、高卒新人としては40年ぶりの2年連続150奪三振を記録します。

2009年、3年目には当時の第2回WBC日本代表に選出され、若干20歳ながら堂々たる振る舞いでの投球で日本の二連覇に貢献するというプロでの世界経験も積みました。この年は他に自身初の月間MVPに選出、開幕7連勝を記録、自己最速を更新する155km/hを計測、最終的にリーグ2位タイ、チームトップとなる15勝、リーグ3位となる防御率2.33を記録、プロ入り4年目の選手としてはダルビッシュに次ぐ史上2番目の高額契約となる年俸1億8000万円で契約するなどこの年にて億超えプレイヤー入りを果たします

2010年、4年目は自身3度目となる月間MVPを受賞、しかし太腿の肉離れや右大胸筋部分断裂など怪我に悩まされることになります。

二人が同じプロの土俵に上がってからの格差

斉藤:プロ生活の当初こそ活躍

2011年、田中将大に遅れること4年、ついに斎藤佑樹もプロ野球に入団します。年俸は1,500万円で田中のプロ1年目と同じでした。

当時のテレビ番組においては楽天の野村克也監督より 「よい配球をすれば毎年10勝以上できる」、「きちんというべきところでは自己主張している。骨があるピッチャーだ。」 などと称賛されていました。

その称賛の通り同年ルーキーで初勝利をし、オールスターゲームにも選出。2試合の登板を無失点に抑え、スカイアクティブテクノロジー賞を受賞しています。シーズンでは故障もありながらローテーションの5番手に加わり6勝6敗防御率2.69とまずまずの成績を挙げた一方で、日本ハムの梨田昌孝監督からは投球フォームについて苦言を呈されてもいました。しかし概ねルーキーとしては良好な成績で1年目を終えることができました。

2012年、プロ入り2年目で自身初の開幕投手に指名され、その開幕戦で1962年の柿本実(中日ドラゴンズ)以来50年振りとなる初の完投勝利を挙げます。試合後のインタビューでは 「今は“持ってる”ではなくて背負ってます」 と返し、再びフレーズに注目が集まりました。しかし同年6月頃から成績不振に陥り7月には出場選手登録を抹消されます。2軍落ちした後も若手主体のフューチャーズや社会人JX-ENEOS野球部に打ち込まれるなど浮上のきっかけを取り戻せません。

斉藤:12球団の全投手の中でワースト記録

再度1軍にあがるものの、田中将大有する東北楽天ゴールデンイーグルスに打ち込まれ惨敗、そのまま登録を抹消されてシーズンを終えました。ちなみにシーズン通算で被打率.300、被出塁率.374、QS率50%、失点率5.19という内容に終わり、RSAAは-20.74と、規定投球回数未満を含む12球団の全投手の中でワースト記録という、悪い方の意味で記録に残る選手になってしまっています。追い打ちをかけるように右肩の関節唇損傷と診断されてしまいます。大学時代から迷っていたフォームの改善調整のための投げ込みが悪化してしまったのです。

2013年、プロ3年目は2軍生活でほとんどを終えることになります。その二軍で9失点をくらった後になぜか1軍に復帰しますが、そんな調子で勝てるはずもなく5回まででKO、当然再び二軍堕ちとなります。二軍での成績も1勝3敗、防御率8.61、秋のフェニックス・リーグでも中盤に打ち込まれる場面が目立ち、1勝2敗、防御率7.18、年間を通して打たれたことしかないシーズンになっています。田中将大がプロ3年目において大活躍をして億超え契約を勝ち取ったのとは対照的です。

斉藤:スランプ後、客寄せパンダとして酷評される

2014年、プロ4年目でも不振が続き、2012年6月6日の対広島戦以来785日ぶりに勝利投手となるものの、2軍では17試合に登板し、1勝7敗、防御率4.73の成績に終わっています。

2015年、プロ5年目では12試合の登板で1勝2敗、防御率6.04と不本意な成績となり、浮上のきっかけすらないままです。プロ5年目時点での田中将大は複数月MVP受賞、パ・リーグ歴代記録に割り込む記録の数々、沢村栄治賞を初受賞、他にもベストナインにも選出され、ゴールデングラブ賞、最優秀バッテリー賞も獲得しています。比較するのが可哀想な差となっています。

2016年、年間を通して11試合に登板はするものの1勝もすることができないままシーズンを終えます。オフには背番号をかつて甲子園でつけていたエースナンバー【1】に戻します。ただほとんど活躍できない中、その背中も番号も悲しいまま時が過ぎ去っていきました。毎年ほとんど活躍できないのにクビにならないのは斎藤の持つ一般的認知度、斎藤の存在による球団のグッズ収入、斎藤がもたらすCM効果などの効果を計算して・・・と毎年のように言われています。

http://bis.npb.or.jp/2015/stats/idp2_f.html

田中:斉藤がプロに入ったときには既に億プレイヤー

2011年、ライバル斎藤佑樹がついにプロ入りした時、田中はすでにプロ5年目の億プレイヤーとなっていました。

成績の方も絶好調で6,7月と月間MVPを受賞、開幕から16試合連続でクオリティ・スタート(6回以上を投球して3失点以内に抑えること)を達成、8月27日の対ソフトバンク戦では野田浩司に次ぐ歴代2位の1試合18奪三振を記録、対日本ハム戦では斎藤佑樹との投げ合いにも勝利、10月にもMVPになり、年間3度のMVP受賞しています。投球回は初の200イニング超えの226回1/3イニング、奪三振は241とイニング数を超える数を記録、防御率はパ・リーグ史上2位となる1.27で2リーグ制以降で歴代5位の記録。

この年は最多勝利(D.J.ホールトンと同数)、最優秀防御率、最優秀投手、最多完封(6試合、ダルビッシュと同数)の4冠を獲得。他に両リーグトップの完投(14試合、ただし2試合10イニングを投げた試合があるがいずれも決着が付かなかったため完投ならず)、無四球試合(5試合)も記録。四球の数も減り、過去最多のイニングを投げながら四球は僅か27と過去最少で、パ・リーグの規定投球回に到達した投手の中では3番目に少なく与四球率1.07、K/BBは最多奪三振を記録したダルビッシュの7.67を上回る8.93を記録し沢村栄治賞を初受賞、他にもベストナインにも選出され、ゴールデングラブ賞、最優秀バッテリー賞も獲得。まさに球界の顔として堂々たる結果を残すシーズンを送りました。

2012年、プロ6年目では里田まいと婚約し公私共に充実。弱小楽天にいるが故の打線援護の弱さのため敗戦投手になることも多く、シーズン前半は苦しみますが8月26日の対日本ハム戦で延長10回を無四球完封勝利を挙げ、これより翌シーズンにかけての有名な連勝記録をスタート。

終わってみれば2桁勝利、防御率は2年連続の1点台となる1.87、リーグ最多奪三振を記録、完投・完封もリーグトップを記録、第3回WBC日本代表候補選手34人にも入るなど日本を代表する選手となっていきます。

次年度の契約は複数年契約ですが10億超えを果たし、さらに会見では「将来的に、そういうところ(メジャー)でやろうという気持ちが芽生えたので、早いうちに伝えようと思いました」とメジャー挑戦の意思を表明します。

田中:24連勝無敗と日本プロ野球新記録を達成

2013年、プロ7年目では第3回WBC日本代表の代表選手に選出、シーズンでは連勝記録を伸ばし続け連戦連勝、5月には月間MVP、このMVPは通算8度目となり、投手としてはパ・リーグ最多、5年連続受賞は投手としてはプロ野球初の偉業でもありました。

さらに連勝を重ねることで、史上初の2度目の2カ月連続、通算9度は投手としては日本プロ野球最多タイの月間MVP受賞、パ・リーグ初の3カ月連続、日本プロ野球タイ記録の年間3度目、通算10度目(いずれもイチローの記録に並ぶ)の月間MVP受賞、8月には日本プロ野球新記録の21連勝、さらに9月26日の対西武戦(西武ドーム)ではリリーフ投手として西部を無失点に抑え胴上げ投手となり、チームは初のリーグ優勝を決めました。

最終的にはシーズン終了で24連勝を記録します。クライマックスシリーズでも連勝し続け、CSで3試合連続勝利でタイ記録で史上3人目、3試合連続完投勝利はCS新記録、パ・リーグCSの最優秀選手に選出。日本シリーズではシリーズ史上18人目20度目の二桁奪三振、シリーズ史上3人目の毎回の12奪三振、最終戦でもリリーフを成功させて楽天の初の日本一に多大な貢献をしつつ、記録づくめのシーズンを終えました。この年は、最多勝、最優秀防御率、勝率第1位投手を獲得。

前年からの連勝を28、開幕からの連勝を24としてそれぞれ日本プロ野球新記録を達成。規定投球回数に達し、勝率10割としたのは日本プロ野球史上4人目で、シーズン無敗で最多勝は日本プロ野球史上初。沢村賞は選考委員会でわずか10分満場一致により選出され、ベストナイン投手部門では24年ぶり、自身初のMVPでは投手野手通じて48年ぶりに、記者投票で満票を獲得しての受賞となります。11月23日に行われた球団のファン感謝祭において、開幕からのシーズン24連勝に前年からの28連勝と、これにポストシーズンの2勝を含めた30連勝の3つがギネス世界記録として認定され、認定証が贈られるなど世界に認められる記録を造りました。

ポスティングシステムの新協定成立後の12月17日には翌シーズンのMLB挑戦を希望していることを表明し、25日に球団からポスティングシステムの行使を容認され、2014年1月22日にニューヨーク・ヤンキースと総額1億5500万ドルの7年契約に合意したことが発表され、メジャーに挑戦します。

田中:総額1億5500万ドルの7年契約で渡米

2014年、プロ8年目でメジャー挑戦となった田中はすでに契約内容時点で投手としてはMLB史上5位の契約額となり、4年目終了後には契約をオプトアウトしてFAとなれる条項が付くオプションまでついていました。スプリングトレーニングでは3度の先発を含む5試合に登板し、2勝0敗、防御率2.14、WHIP0.86と好投。

3月29日にはスプリングトレーニングで活躍した1年目のヤンキースの選手に与えられる「James P. Dawson Award」を受賞します。メジャーでも連勝記録を伸ばし続け、日米通算100勝目となるMLB初勝利、メジャー初完封勝利を上げます。しかしこの連勝記録も5月20日のシカゴ・カブス戦では6回8安打4失点(自責点3)でMLBでの初敗戦投手となり、2012年8月26日から続いた日米レギュラーシーズンでの連勝記録は34で止まることになります。

それでも日本人投手史上3人目となる5月のリーグ月間最優秀投手に選出、メジャー最長タイ記録となるメジャーデビューからの16試合連続クオリティー・スタートを達成、オールスターに選手間投票1位で選出されるなどの記録を造ります。しかし右肘靭帯の部分断裂などが発覚、このシーズンにおいてはなんとか復帰を果たし勝利をあげていますが、爆弾を抱えたまま不安を残します。

田中:甲子園の後遺症か怪我に悩まされる

2015年、前述の怪我に何度も悩まされるようになり、シーズン10勝やダルビッシュ有以来2年連続で二桁勝利などを果たしますが右肘の怪我に悩まされ続け、シーズンオフに右ひじの骨片を取り除く手術を受けることになります。この年は怪我に泣かされたため24試合先発、12勝7敗。防御率3.51の数字でシーズンを終えています。

2016年、怪我の回復をアピールする絶好の機会としてオープン戦に登板。結果打ち込まれてしまい防御率7.36と最悪のスタートを切りました。その後自己最多となる14勝目を記録するものの、怪我を意識してか長時間の投球を避けるプレイに終始。スタートこそ最悪でしたが、終わってみれば防御率は3.07のリーグ3位で1位とは0.07差という好成績で終えています。

2017年、この歳もオープン戦に登板、日本人投手初の3年連続開幕投手となったが去年同様打ち込まれてしまいます。27日のレッドソックス戦では2014年5月14日のメッツ戦以来となる完封勝利を記録、日本人メジャー初のデビューから4年連続2桁勝利も記録。シーズン成績は13勝12敗、防御率4.74。

田中将大が作ったプロ野球記録

NPB初記録

  • 初登板・初先発:2007年3月29日、対福岡ソフトバンクホークス3回戦1回2/3を6失点
  • 初奪三振:同上、1回裏に多村仁から空振り三振
  • 初勝利・初完投勝利:2007年4月18日、対福岡ソフトバンクホークス5回戦、9回2失点
  • 初完封勝利:2007年6月13日、対中日ドラゴンズ3回戦 ※高卒新人史上15人目
  • 初セーブ:2008年6月22日、対広島東洋カープ3回戦、7回裏に2番手で救援登板・完了、3回無失点
  • 初打点:2008年5月25日、対東京ヤクルトスワローズ1回戦、6回表に鎌田祐哉から遊撃ゴロの間に記録
  • 初安打:2009年6月18日、対広島東洋カープ4回戦、3回表に大竹寛から中前安打

MLB初記録

  • 初登板・初先発・初勝利:2014年4月4日、対トロント・ブルージェイズ戦、7回3失点(自責点2)
  • 初奪三振:同上、1回裏にホセ・バティスタから見逃し三振
  • 初完投・初完封勝利:2014年5月14日、対ニューヨーク・メッツ戦 ※日本人投手として史上7人目
  • 初安打:同上、9回表にホセ・バルベルデから中前安打

NPB節目の記録

  • 1000投球回:2012年6月29日、対福岡ソフトバンクホークス9回戦、
    4回表にウィリー・モー・ペーニャから空振り三振で達成 ※史上327人目
  • 1000奪三振:2012年8月19日、対埼玉西武ライオンズ16回戦、
    5回裏に栗山巧から空振り三振で達成 ※史上131人目

日米通算節目の記録

  • 100勝:2014年4月4日、対トロント・ブルージェイズ戦(NPB:99、MLB:1)
  • 1500奪三振:2015年9月8日、対ボルチモア・オリオールズ戦(NPB:1238、MLB:262)、5回表にジミー・パレデスから空振り三振

その他記録 NPB

  • オールスターゲーム出場:6回(2007年 – 2009年、2011年 – 2013年)
  • 1試合奪三振:18、2011年8月27日、対福岡ソフトバンクホークス20回戦 ※歴代2位
  • 延長戦無四球完封勝利:2012年8月26日、対北海道日本ハムファイターズ21回戦
    リーグ1971年6月24日高橋直樹(東映)が近鉄戦で記録して以来41年ぶり
  • 連続勝利:28(2012年8月26日 – 2013年10月8日)
    ※日本プロ野球記録、ギネス世界記録認定
  • 開幕からの連続勝利:24(2013年4月2日 – 2013年10月8日)
    ※日本プロ野球記録、ギネス世界記録認定
  • シーズン連続勝利:24(同上) ※日本プロ野球記録
  • シーズン勝率:1.000(2013年) ※日本プロ野球タイ記録(史上4人目、2リーグ制以降間柴茂有以来2人目)
  • シーズン無敗での最多勝:(2013年) ※日本プロ野球史上初
  • 先発登板機会連続勝利:17(2013年6月9日 – 継続中) ※日本プロ野球記録
  • 登板機会連続勝利:15(2013年6月9日 – 2013年9月21日) ※日本プロ野球タイ記録
  • シーズン勝利:24(2013年) ※楽天球団記録
  • クライマックスシリーズ連続勝利:3(2013年現在)※CSタイ記録
  • クライマックスシリーズ連続完投勝利:3(2013年現在、CS初登板から) ※CS記録
  • 日本シリーズ楽天球団初勝利:2013年第2戦、対読売ジャイアンツ戦、9回1失点で完投勝利
  • 日本シリーズ毎回奪三振:同上、12奪三振、史上3人目
  • 日本シリーズ二桁奪三振:同上 史上18人目20度目
  • ポストシーズンを含めた連勝記録:30 2012年8月26日 – 2013年10月27日(シーズン公式戦:28、CS:1、日本シリーズ:1)
  • 米通算レギュラーシーズン連勝記録:34 2012年8月26日 – 2014年5月20日(NPB:28、MLB:6)

MLB

  • MLBオールスターゲーム選出:1回(2014年)
  • Topps ルーキーオールスターチーム(右投手部門:2014年)

「カイエン青山」とネタにされてしまう斎藤佑樹

あっ カレラ ポルシェ!
カイエン乗りてぇ
青山って すげぇオシャレだと思うんですけど
結構 緑あるじゃないですか
青山に土地買うのってやばいっすか?
うわぁ 頑張ろう
ビッグになろう 

ちなみに斎藤佑樹は一部ではカイエン青山としてネタにされてしまっています。

斎藤佑樹は良くも悪くも注目を浴びる選手であったため、スランプに陥った時期でもテレビでドキュメンタリーが作られるなど、いろんなメディアに出ずっぱりでした。2012年当時のシーズンで登録抹消された後、再起を図るドキュメンタリーにおいてポルシェを見て上記のセリフを言いました。

当時から田中将大と比較され、さらに自身が思うように活躍できてない時に哀愁漂うセリフを言ったため、その現状と理想とライバルとの格差が話題となってネタにされてしまったのです。

その後斎藤佑樹はューバとの壮行試合のサムライジャパン代表メンバーに選ばれたりもしましたが、最終的な記録はシーズン通算で被打率.300、被出塁率.374、QS率50%、失点率5.19という内容に終わり、RSAAは-20.74と、規定投球回数未満を含む12球団の全投手の中でワースト記録になっていまいます。さらにオフには怪我も発覚するなど、これ以降満足な活躍はできていません。

ポルシェを自分で買うのではなく、買ってもらう

ちなみに2016年7月には念願のポルシェを手に入れることに成功していたことが発覚します。しかしその入手経緯が話題になりました。

なんと斎藤佑樹は自分で稼いだ年俸でポルシェを買ったのではなく、他人から提供されて手に入れたのです。

斎藤佑樹は、幾度もの付き合いのあった出版社ベースボール・マガジン社の池田哲雄社長に「鎌ケ谷の二軍練習場に通うための車が欲しい」とおねだりし、マカンの新車を手に入れることに成功しました。この時斉藤は価格が2000万円を超えることもある高級車ポルシェのカイエンを希望したが、約800万円のマカンの新車に落ち着いたということです。他にも同社長には会社やマンションまで提供されているということです。活躍しなくても話題になる斎藤佑樹ですが、ここ数年は悪い話題・悪い印象ばかりのニュースが流れてしまっています。

<週刊文春2016年7月21日号『スクープ速報』より引用>
北海道日本ハムファイターズの斎藤佑樹(28)が、出版社社長からポルシェなどを提供されていたことがわかった。斎藤はノーコメントだったが、提供側の出版社社長が「週刊文春」の取材に認めた。

関係者によれば、斎藤は出版社ベースボール・マガジン社の池田哲雄社長に「鎌ケ谷の二軍練習場に通うための車が欲しい」とおねだり。価格が2000万円 を超えることもある高級車ポルシェのカイエンを希望したが、マカンの新車に落ち着いたという。マカンも価格は最低でも800万円を超える。

池田社長は、取材に「斎藤から『ポルシェが好きなんで』と言われてね。『お前には頑張ってもらわなけりゃならないから、俺が払ってやる』と」と認めた。他にも社や池田社長が所有するマンションを提供したこともあったという。

野球選手の金品授受を巡っては、過去に桑田真澄、水野雄仁らが処分を受けたこともあり、日本ハムの対応が注目される。

実力が伴わないのにビックな発言で失笑される斎藤佑樹

斎藤佑樹は高校、大学こそ大活躍をしてビックな発言に注目が集まりましたがプロになって満足な活躍ができなくなってからは、ビックな発言が逆に足枷になってしまいました。

さらに現状を認識せずに浮いた発言をすることが取り上げられることも多く、周囲の関係者に「大谷は高卒だからしっかりあいさつができない。その点、(早大の後輩)有原は大卒だけにしっかりしている」との自分より圧倒的に活躍している大谷批判を展開し、眉をひそめさせたこともありました。

その実力を伴わないKY発言から、ダルビッシュ有は斎藤佑樹のことを相当嫌っていたと言われています。また投手コーチからも 「あんなに練習しない投手は初めてだ」 とさじをなげられています。ダルビッシュもそういった斉藤の練習しない姿勢に相当怒っていたようです。

入団当時には 「北海道民のファンの皆さま、こんにちは。東京都の早稲田大学から来た投手です」 と発言し、名前を名乗らずに多くのファンに違和感を与えることになったこともありました。

二軍の試合に先発し、6回途中10安打自己ワースト11失点(自責7)でKOされた後、「(二軍で)11点取られた結果が全部(僕が)悪いということにすると、やりたいことがぶれてしまう。進んでいる方向は間違いない」 と全く反省しない姿勢を批判されました。

他にもいろんな発言が取り上げられています(参考;知恵袋

大学時代の発言


「大勢の観客の中で投げるのに慣れた。今じゃあれがないと物足りない」

「甲子園の決勝再試合はいい加減に放っていた」

「今日は観衆が思ったより少なかった。自分ならもっと集められると思う。自分なら神宮を満員にできる」

「アナウンサーやスポーツキャスターにも興味がある」

「他にもデザイナーとか設計士もいい。留学して英語も話せるようになりたい」

「秋頃のフォームに戻れば自分は今でも普通にプロで通用するレベルにいる」

「政治や経済も勉強している。いつかは自分が指導者となって日本を潤したい。でも今は僕の投球や話題で全国を明るくしたい」

「大学野球くらい今の自分なら普通に抑えられる」

「六大学にはライバルと思える人はいない」

「自分が調子が悪くても抑えられる大学野球のレベルに萎えたのは事実」

「大学野球の投手は大した事ない」

「いつか27奪三振完全試合を達成して、斎藤の名を世界に轟かせたい」

「イメージを崩せないのでまじめに話します」

「俺がいる四年間は再び早稲田の黄金時代を築きたい」

「わが早稲田は一生勝ち続けます」

「やっぱり、まだ何かを持っているなと思います。六大学(の春季リーグ戦)が終わって、運を使い果たしたころかなと思っていましたが、使い切らないものですね。一生何か持っている、こういう人生なのかなと思います」

「10年後は、イチローさんや松井さんのように注目されても構わない。対戦したら抑える自信がある」

「不敗神話と最近そう言われてその気になっていた。もう少し謙虚にならないといけないと思った」

「経験を積んで、MLBの舞台で松坂さんと投げ合いたい」

「高校時代、このキャッチャーで夏までいけるのか?と思った 」

記念交流試合で斎藤君から安打を打った坂本に対して「差は感じなかった」

日本球界で日本人は誰も160キロ出した人いないにもかわらず 、アメリカの大学との試合後、アメリカ選手の豪速球を目の当たりにした斎藤君は
「いずれ160キロ出してみたいです」(そもそも斎藤君は150キロも出ていない)

当時超高校級の怪物といわれていた中田翔に対して、「甘いボール投げなければ打たれない自信があったし駆け引きは必要なかった」

早稲田摂陵中・高で講演を行った時「将来は政治家になりたいと思っています」(会場がどよめく)

プロ野球時代の発言

「早稲田にいた証を、契約金の一部で示したい」

「カイエン乗りてぇ。青山に土地買うってヤバイですか?ビッグになろう」

「チャリティー活動をやりたい。病気の人や子供の為に」

「20年で200勝したい」

「(記者に)”斎藤世代、襲来”っていう見出しはどうですかね?」

「ぶっちぎりで行っても何も面白くない」

「(朝鮮)戦争が始まったら野球が出来ない」

「なるべく打率の低い打者と対戦したい」

「北海道民の皆様、ファンの方、こんにちは。東京都の早稲田大学から来た投手です」

「早稲田という最高のブランドを背負ってやっていきたい」

「(自主トレ)イチローさんがよろしければ、一緒にやってみたい」

「小さい頃から投手なので、良くも悪くもわがままな性格。(理想の人は)それをよしとして(受け入れて)くれるキャッチャーのような人」

「結婚は活躍してからが理想」

「50歳まで現役でやりたい」

「プロ野球だけが仕事じゃない」

「実戦で調整したい」

「今の自分のレベルを把握したい。打たれて学びたい」

「(梨田)監督のキャッチングは凄くいい」

「打たせて取るタイプだが技巧派にはなりたくない。松坂さんやダルビッシュさんのようになりたい」「(中田翔に)やっぱりパワーはあるな」

「これからも10割の力で投げることは無い」

「昨日から腹痛い。下痢はしていない」

「先発と中継ぎは違いますよね。自分は先発でやりたい」

「スライダーを投げれば抑えられると思ってたが、ズルはしたくなかった」

「中国から来たパンダが騒がれる。そういう物って長続きしない」

「(地震後)野球をやっていていいのか」

「(分離開幕は)パリーグとしては、いい決断をした」

「(3回9失点)コントロールを見直す。球速や球威はシーズンを通して上げていけばいい」

「いきなり同級生対決なんて面白い」

(初勝利)「次は理想の投球で」

「野球の面白さ感じた」

「いいバックがいるな、と改めて感じた」

「1勝出来て北海道の仲間入り出来たかな」

「時差ぼけをしない為に朝まで一緒にいて欲しい」

「女の子とディズニーランドに行くのが僕の夢」

「(チンコを)触ると落ち着くんです」

「なんかむなしい。これまでずっと勝ってきていたじゃないですか」

「(4回KO)変化球に頼りすぎた。自分としては内野の間を抜ける当たりに関しては良しとしている」

「少しのエラーも含めて失点を少なくしたい」

「怪我は仕方ないが、その後の2敗は防げた」

「自分の真っすぐへの自信がついてきた」

スランプに入ってからの発言

「セ・リーグの4番の打者に挑みたい。全球とはいかないまでも、球宴だから真っすぐというのは頭にあります。真っすぐでいける実力をつけたいですし。まずはプロで自己最速146キロです」

「(ASで3失点後)ボール自体に手応えを感じるところはあった」

「最強の24歳になりたいです」

「実力も人としてもプロのトップに立てる」

「いずれは160km」

「次のWBCでは中心に居なければならない」

「松坂さんと一緒にレッドソックスで投げたいです」

「田中との差は大きくないと思った」

「WBCの決勝のマウンドに立っている自分が想像できる」

「夏は好き。バテたこともない」

「(松田直樹訃報)こんな形でサッカー人生を終えてしまったのは残念」

(永遠のライバル田中将大と遂にプロ初対決!!4失点完投も敗戦)「これが四年間の差か」
「(田中は)基本的には四年前と変わらない印象」
「(田中との)”野球”の差を埋める為にも、努力していく価値を見出せた。差は決して大きくないし、全く追い付けないものじゃない」

「(監督には)いい形で退いてもらいたい」

「澤村は今年10勝以上して、プロでやっていける自信がついたと思う」

「日本一の18番といえば斎藤?それを目指したい」

「滅茶苦茶いい女なんスよ。ちゃんとした大学だって出てるんスから」

「(付き合う女性は)1人じゃ我慢できない」

「福井、出てこいや!」

「フハハ!!ホモじゃないです」

「バットに当てさせないようにしたい」

「(田中初対戦では)失点の差は3しかない。6回までは0-1。点を取られる前に代えられていたらどうなった?勝てない相手じゃない」

「0に近い物を目指す」

「次のWBCでも日本代表のユニを着たい」

「もっているではなく今は背負ってます」

「風がいいようにボールを動かしてくれた」

「真っ直ぐでいける実力をつけたい」

活躍できず引退説が常にくすぶる斎藤佑樹

2018年シーズンの斎藤佑樹は前半戦で2試合に先発し0勝1敗、後半戦は二軍戦で主に中継ぎとして調整し結果を出し3度目となる一軍昇格。2018年10月2日の西武戦では1回を無失点に抑える好救援を見せた。しかし、CSでは出番がないままチームは終戦。結果として2018年も目立った活躍がないままシーズンが終了しています。

この年には斎藤佑樹も30歳を超え、日本ハムの方針「30歳以上は自主練」に従い自主練をしているところを取材されています。チームから離れたところを見て「引退説」を唱える人も多いですが、当の本人はどこ吹く風。

「前々から試したかったデトックスを、17日から19日までの3日間やったんです。いわゆる断食のようなもので、体の中の毒素を抜くことが目的。その間は水と酵素以外、口に入れませんでした。もちろん3日やっただけですぐに今何か効果が出るわけではないですけどね。まずはやってみよう、て感じで」

といった感じで記者を軽く交わしています。実力はともかく、そのメンタルの強さは前々から驚嘆の声が上がっています。とはいえもう30歳。伸びしろがなくなっていく年代であり、ここまで広がった田中将大との差はもう埋めようがないでしょう。当の本人もそんな事は考えておらず、わが道をゆくといった感じす。

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